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プノンペンのトゥール・スレン虐殺博物館 @

かつてフランスの植民地だったカンボジアは、国王シアヌークの外交努力によって1953年に完全独立を果たした。しかし、60年代後半からの経済状況の悪化とベトナム戦争の影響で国内が不安定になり70年3月にクーデターが起きる。王制廃止と共和制へとすすんだカンボジアだったが、クーデターを起こした親米のロン・ノル政権に対して、北京へ亡命しカンプチア民族統一戦線を結成したシアヌークは共産主義勢力のクメール・ルージュと手を結んで政権奪取を目指した。こうしてカンボジアは内戦状態になった。

1975年4月17日、カンプチア民族統一戦線(実質的にはクメール・ルージュ)がプノンペンを制圧しロン・ノル政権は崩壊。政権を奪取しシアヌークを幽閉したクメール・ルージュは新国家・民主カンプチアの名のもとに、共産主義・農村主義にもとづいた政策を始めることになる。その政策とは、「住人を都市部から郊外へ移動させ農作業に従事させる、学校・裁判所・市場などを廃止する、貨幣を廃止する、家族を解体する、宗教を禁止する」といった西側社会では考えられない内容だった。そして強制労働や飢餓により多くの国民が死に至った。

クメール・ルージュはさらに旧政権に関わる者、伝統文化の継承者や知識人や教師といった文化人、彼らと関わりがある者、ベトナム系の住民や親ベトナムの人々までを殺戮した。後には地方のクメール・ルージュ機関の幹部や関係者までが反乱を疑われて処刑された。

一説によれば当時の国民の5人に1人にあたる150万人とも200万人とも言われるカンボジア人が虐殺されたという。1984年にアカデミー賞(助演男優賞、編集賞、撮影賞)を受賞した映画「キリング・フィールド」を覚えておられる方も多いと思う。
キリング・フィールドと呼ばれる大量虐殺の処刑埋葬場跡は数か所あるが、一番有名なのはプノンペン郊外のチュンエク村である。ここはもともとは暗号名「S21」と呼ばれた政治犯収容所に付属する処刑場だった。

フランス植民地時代には東洋のパリと謳われ美しい建築物が今も残るプノンペンの街。プノンペン市内の中心地から少し南にかつて暗号名「S21」と呼ばれた場所があった。もとは高校だったこの建物は、クメール・ルージュの治安警察である「サンテバル」の本拠地として1976年4月から1979年1月にかけて政治犯を収容する施設として使用された。そしてたった2年9ヶ月の間に14000人〜20000人が収容され、生還できたのはたった8人だけだといわれている。  (つづく)




(写真1)今は観光客が訪れる

(写真2)この独房で政治犯は鎖につながれた

(写真3)大半が写真を撮られた後に殺された

文・写真: 城戸可路